母42は外出だったし、雨だったので午前中は市の児童館へ。もう全然気にしないけど周りのお母さんやお父さんに放置された子供達とおままごとしてボール遊びして楽しんだわー。
Rは「お茶、おかわりー!」と連呼するちょっと年下の女の子の要求にため息混じりで何十回もお茶を注ぐ真似をするくらい立派に対応!!(将来見えた感じで大爆笑)
Nは「赤ちゃんダメー!!」と我が物顔のお姉さんにガン飛ばしながらも泣かずに張り切って遊べた!そういい子の親は何も言わずに楽だけど、自分の子が愚図るとやってきてこっちにも謝るので面倒だわ。
子供の事でいちいち謝るなよ、お互い様何だから。危ない事したらどこの子だろうが叱ってやるから放っておけ!と酒の勢いで愚痴る俺はチキンさ。
それにしても「笑顔!」と言って撮れた写真が2枚目... うちのこもチキンだわ。
2015年6月3日水曜日
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2 件のコメント:
私の研究成果の一端を。。
「人間にとって、その都度その都度の状況(コンテキスト)、ほぼ普遍的に正しいと思われる事項(割と簡単と思われる正誤の判断など)を踏まえて適正に行動する、というのは中々負担が大きい」
従って、どうしてもより「楽な方」を選ぶようになる。
その「楽な方」というのが、日本人にとっては、「コンテキスト>>普遍」。「多くの人が行動するように(見えるように)行動しておけばまあまあ大丈夫だろう」。
この方法で一番の問題は、126さんがおそらく違和感を感じられているであろう、「個の不在」。これは単に「臨機応変な判断ができていない」ということにとどまらず、実は暗に「普遍」(生命の安全とか生存に不可欠な物的資源とかに関わる判断など)に関する責任を外部化してしまっているために、全うな(生存本能に必要なという意味で)神経を保持している人からすると、異様に感じられてしまうのです。
どういうことかというと、生き物なのだから、当然「危ないかどうか?」「腹減ってるかどうか?」なんてのは個々の判断のはずなのに、「カガク」とか「合理性」とかが勝手に「決めてくれている」と信じ込み過ぎてしまう。これに慣れきってしまうと、誰かから直接「適宜判断すれば?」と言われるような言葉よりも、そこらへん探せばいくらでも見つかる「合理的説明」をより重用するようになる。
なぜかというと、単純に面倒くさいから。他人から何か言われて、その真意を読み取って、自分自身で判断して決める、というのは。
気持ち悪いのは、その「合理的説明」というのが、実はほとんど全うな科学的な合理性に基づいていなくても、普段はあまり大きな問題もなく通ってしまうこと。
つまり、特に日本では、本当は「ただみんなが同じようにやっているだけ」なのに、その方法が「合理的」と判断されてしまいやすいということ。
なので「チキン」などではなく、126さんはある意味、生存本能がイキている人としては的確な判断をされているといえます。だって、「適当に。。。」なんつったら「??」で済めばいいけど、反論?逆ギレ??という可能性だって十分に想定できるから。
なかなか住みにくい世の中です。。。
その都度適宜の判断が大変な作業だとしても、私は、盲目的に誰か、何かに責任を丸投げするのではなく、「責任負っていただいてありがとう」と思えるような世の中にならないか?と思索しているところであります。
濱岡さん、コメントへの返事が遅くなり恐縮です。安直に返信するのが憚られたので、遅くなってしまいました。
個の不在、責任の外部化については強く同感です。最近憲法の議論で思うところにも通ずると感じるのですが、日本社会における個と公共(私と公)のバランス感覚というか比重というかに違和感を感じることが度々あります。酒でも飲みながらそんな話をする機会が欲しいですねー。
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